6カ国8人の生活 その8
2007年4月24日 異文化
6カ国8人の生活は書いていくうちに色々思い出してきました。まだまだ続きます。
昨日、不動産屋にちょっと触れたら、当時抱いていた彼へのマイナスの感情が色々と出てきた。あ〜、あんな人にはもう会いたくない、と思うほど、嫌な人だったなぁ。
最初に嫌だなぁ、と思ったのは、例のイタリア人失踪の時だった。彼女がいなくなって、慌てて我が家にやってきた彼(名前は当の昔に忘れました。良かった、忘れてて)は、リビングにいた私達に対して、大学の卒業証明書をこれ見よがしに見せた。法学部のだった。そして、「もし逃げたとしても必ず見つける。自分にはそういうことが出来るんだ、これを見よ」、みたいな事を自慢げに話した。
なぜ、わざわざ卒業証明書を見せたのかは全く分からないのだが、おそらく、自分は法学の知識を持ってるんだぞ、みたいな事を言いたかったんじゃないかな、と皆で話した。別に逃げも隠れもするつもりのなかった私達は、「はぁ?」という感じだったし、実際に法学部を卒業しても司法試験なんかに受かってなければ、弁護士とかの資格はないし、もし、万が一何か取っていたら卒業証明書じゃなくてその資格の合格証明書を持ってくるはずだから、逆に自分は卒業はしたけどプロの法律家にはなれませんでしたって言ってるようなもんじゃんねぇ、と笑いものにしてしまった。それぐらい、私達が嫌悪感を抱くような嫌味な言い方をしていた。
イギリスでは、9月半ば過ぎから雨量が増える。
ある日、雨がたくさん降ったときに私の部屋(屋根裏)で雨漏りがした。翌日、不動産屋に電話して、至急直してくれるように依頼した。
梨のつぶてだった。
一週間ぐらいして、また雨が降った。また電話した。いつも修理してくれる人が休暇でいなかったと言い訳をした。
翌日、私が学校に行っている間に、誰かが来た様で、「至急直す」とのメモが残っていた。
一週間経った。まだ来なかった。
日曜日、大雨が急に降ってきた。土砂降りの雨だった。外出していた私が家に帰ると、イギリス人のロブが謝ってきた。何事かと思ったら、私の部屋で雨漏りがして、その下の部屋のロブのいた部屋にまで雨が漏れてしまったので、部屋の鍵を壊して(大人数の共同生活だったため、各自の部屋の入り口に簡単な鍵を取り付けていた)中に入ったと言う。
慌てて私の部屋に行ったら、部屋の中がザァザァ降りだった。頭に来たけれど、日曜日で不動産屋は休み。
翌日、自分でもびっくりするぐらい流暢に不動産屋へ怒鳴り込みの電話をかけた。
その日の午後(!!!)、修理のおじさんが来た。
ふざけるな!そんなすぐ来れるならさっさと寄越せ!!
あ〜、思い出しただけで頭にくる。
読んでくれて、ありがとう!
昨日、不動産屋にちょっと触れたら、当時抱いていた彼へのマイナスの感情が色々と出てきた。あ〜、あんな人にはもう会いたくない、と思うほど、嫌な人だったなぁ。
最初に嫌だなぁ、と思ったのは、例のイタリア人失踪の時だった。彼女がいなくなって、慌てて我が家にやってきた彼(名前は当の昔に忘れました。良かった、忘れてて)は、リビングにいた私達に対して、大学の卒業証明書をこれ見よがしに見せた。法学部のだった。そして、「もし逃げたとしても必ず見つける。自分にはそういうことが出来るんだ、これを見よ」、みたいな事を自慢げに話した。
なぜ、わざわざ卒業証明書を見せたのかは全く分からないのだが、おそらく、自分は法学の知識を持ってるんだぞ、みたいな事を言いたかったんじゃないかな、と皆で話した。別に逃げも隠れもするつもりのなかった私達は、「はぁ?」という感じだったし、実際に法学部を卒業しても司法試験なんかに受かってなければ、弁護士とかの資格はないし、もし、万が一何か取っていたら卒業証明書じゃなくてその資格の合格証明書を持ってくるはずだから、逆に自分は卒業はしたけどプロの法律家にはなれませんでしたって言ってるようなもんじゃんねぇ、と笑いものにしてしまった。それぐらい、私達が嫌悪感を抱くような嫌味な言い方をしていた。
イギリスでは、9月半ば過ぎから雨量が増える。
ある日、雨がたくさん降ったときに私の部屋(屋根裏)で雨漏りがした。翌日、不動産屋に電話して、至急直してくれるように依頼した。
梨のつぶてだった。
一週間ぐらいして、また雨が降った。また電話した。いつも修理してくれる人が休暇でいなかったと言い訳をした。
翌日、私が学校に行っている間に、誰かが来た様で、「至急直す」とのメモが残っていた。
一週間経った。まだ来なかった。
日曜日、大雨が急に降ってきた。土砂降りの雨だった。外出していた私が家に帰ると、イギリス人のロブが謝ってきた。何事かと思ったら、私の部屋で雨漏りがして、その下の部屋のロブのいた部屋にまで雨が漏れてしまったので、部屋の鍵を壊して(大人数の共同生活だったため、各自の部屋の入り口に簡単な鍵を取り付けていた)中に入ったと言う。
慌てて私の部屋に行ったら、部屋の中がザァザァ降りだった。頭に来たけれど、日曜日で不動産屋は休み。
翌日、自分でもびっくりするぐらい流暢に不動産屋へ怒鳴り込みの電話をかけた。
その日の午後(!!!)、修理のおじさんが来た。
ふざけるな!そんなすぐ来れるならさっさと寄越せ!!
あ〜、思い出しただけで頭にくる。
読んでくれて、ありがとう!
6カ国8人の生活 その7
2007年4月23日 異文化
6カ国8人で生活をしていました。
実は、ここにはまだ出てきていない、一時的な住民があと、二人いた。二人の名前はもう覚えていないけれども、一人はスペイン人の女性、もう一人はイタリア人の女性だった。
スペイン人は、住民とはいえないのかな。契約を私と一緒に行ったが、翌日に契約の取り消しをしていた。なんだか、不動産屋にだまされたと思ったようだった。実際のところ、だまされはしなかったものの、かなりの悪徳不動産屋だったので、先見の明があったんだなぁ、なんて思う。
もう一人のイタリア人が厄介者だった。彼女は交換留学生で、スペイン人が入居を取りやめて空いた部屋に入ってきた。英語があまり出来ず、家のルールや取り決めなどを説明するのに一苦労したのを覚えている。ある日、ドイツ人のフランチェスカ、ギリシャ人のヴァンゲロス、デンマーク人のエヴァ、そして私がリビングでビデオを見ていたときにちょうど彼女がやってきて、一緒に見はじめた。その映画の中でちょっとした言葉のやり取りに、ちょっと面白いシーンがあって、私達は笑い声を上げた。そしたら彼女、目をまん丸にさせて一言。
「なんて言ったか分かったの?」
分からなかったら、見てないと思います。
どうやら、彼女は本国では英語が話せるとみなされていたのか、それなりに話せるつもりでいたようであった。だから、他の外国人留学生は彼女と同じレベルに違いないという、びっくりするような先入観を持っていたようである(この話を理解するのにもかなりの時間を要したのは言うまでもないでしょう)。
少なくとも、大学で授業を受けようと思ったら、外国人であっても多少の語学力は必要なんじゃないの???ねぇ。
そんな彼女はそれ以来私達と付き合おうとは全くせず、同じ大学のイタリア人学生とだけ付き合うようになっていった。それはそれで問題ないのだが、真夜中に男連れで帰ってきたり、夕方にシャワールーム(びっくりすることに、一つしかない!!トイレはかろうじて二つあった)を2時間ぐらい占領したりと好き放題の生活をしていた。悪いことに、文句を言おうにも言葉が通じない。。。
ほとほと呆れていたある日、私は学校に行っていたから遭遇しなかったのだが、彼女がだれかを連れて帰ってきた。彼女は直接自室に戻ったかと思うとバタンバタンと大きな音を1時間ほど立て、バタバタと階段を駆け下りる音を二度三度させ、またバタンと出て行ってしまった。
そして、彼女はそれきり帰ってくることがなかった。光熱費などの清算もせずに。
2、3日して、不動産屋が大慌てでやってきた。どうやら、一方的に契約を解除すると伝えたらしい。でも、私達も付き合いは全くなかったし、イタリアに帰ったのかどうかも全く分からなかった。
一ヶ月ぐらいして分かったことだが、どうやらボーイフレンドが出来たらしく、そこに転がり込んだようであった。本当にはた迷惑な人でした。
読んでくれてありがとう!
実は、ここにはまだ出てきていない、一時的な住民があと、二人いた。二人の名前はもう覚えていないけれども、一人はスペイン人の女性、もう一人はイタリア人の女性だった。
スペイン人は、住民とはいえないのかな。契約を私と一緒に行ったが、翌日に契約の取り消しをしていた。なんだか、不動産屋にだまされたと思ったようだった。実際のところ、だまされはしなかったものの、かなりの悪徳不動産屋だったので、先見の明があったんだなぁ、なんて思う。
もう一人のイタリア人が厄介者だった。彼女は交換留学生で、スペイン人が入居を取りやめて空いた部屋に入ってきた。英語があまり出来ず、家のルールや取り決めなどを説明するのに一苦労したのを覚えている。ある日、ドイツ人のフランチェスカ、ギリシャ人のヴァンゲロス、デンマーク人のエヴァ、そして私がリビングでビデオを見ていたときにちょうど彼女がやってきて、一緒に見はじめた。その映画の中でちょっとした言葉のやり取りに、ちょっと面白いシーンがあって、私達は笑い声を上げた。そしたら彼女、目をまん丸にさせて一言。
「なんて言ったか分かったの?」
分からなかったら、見てないと思います。
どうやら、彼女は本国では英語が話せるとみなされていたのか、それなりに話せるつもりでいたようであった。だから、他の外国人留学生は彼女と同じレベルに違いないという、びっくりするような先入観を持っていたようである(この話を理解するのにもかなりの時間を要したのは言うまでもないでしょう)。
少なくとも、大学で授業を受けようと思ったら、外国人であっても多少の語学力は必要なんじゃないの???ねぇ。
そんな彼女はそれ以来私達と付き合おうとは全くせず、同じ大学のイタリア人学生とだけ付き合うようになっていった。それはそれで問題ないのだが、真夜中に男連れで帰ってきたり、夕方にシャワールーム(びっくりすることに、一つしかない!!トイレはかろうじて二つあった)を2時間ぐらい占領したりと好き放題の生活をしていた。悪いことに、文句を言おうにも言葉が通じない。。。
ほとほと呆れていたある日、私は学校に行っていたから遭遇しなかったのだが、彼女がだれかを連れて帰ってきた。彼女は直接自室に戻ったかと思うとバタンバタンと大きな音を1時間ほど立て、バタバタと階段を駆け下りる音を二度三度させ、またバタンと出て行ってしまった。
そして、彼女はそれきり帰ってくることがなかった。光熱費などの清算もせずに。
2、3日して、不動産屋が大慌てでやってきた。どうやら、一方的に契約を解除すると伝えたらしい。でも、私達も付き合いは全くなかったし、イタリアに帰ったのかどうかも全く分からなかった。
一ヶ月ぐらいして分かったことだが、どうやらボーイフレンドが出来たらしく、そこに転がり込んだようであった。本当にはた迷惑な人でした。
読んでくれてありがとう!
6カ国8人の生活 その6
2007年4月21日 異文化
6カ国8人の生活は色々ありました。
ドイツ人のフランチェスカ(彼女いわく、「チェ」は「ch」ではなく「z」の発音だとの事。か〜な〜り、こだわってました)は、20か21のまだ若い交換留学生だった。彼女は旧東ドイツのエリア出身で、質実剛健という言葉がとっても似合っていた。食料品は、高めのスーパーからは買わず、市場で買うようにしていたし、いくつもお店を回って、一番安いところを探すようにしていた。ただ、ケチではなく、何か作ってはおすそ分けをしてくれる、やさしい子だった。
クリスマス休暇、家に帰らずにそのイギリスの長屋に住んでいたのは彼女と私だけだった。その間に私達はすごく仲良くなり、毎日のようにリビングでカードゲームをしていた。他に何をしていたのか、覚えていないぐらい毎日毎日飽きもせずにカードゲームに興じていた。
彼女の話を聞いていると、多少、白人至上主義なのか、だったのか、周りがそうなのかという印象が拭えなかった。ただ、彼女は頭のいい子だったので、その考えを表には決して出さず、私やインド系のイギリス人の子と接していたが、たまに言葉の端々から彼女の考え方が垣間見えることがあった。
海外にいると日本では考えられないくらいたような考え方をする人と出合うことができる。いちいち説明をしなきゃならないこともあったりして疲れることもあるが、幅広いものの見方や考え方に触れることが出来るので、とても楽しい。白人至上主義のような、重いテーマもあれば、楽しい、軽いテーマもある。
こんなこともあった。私がありあわせの食材で夕食を作り、リビングで食べたとき、彼女が一言。「日本人はジャガイモを野菜とみなしてるでしょ?」
ええそうですが?
という感じですが、確かにジャガイモは炭水化物。そのときの私のお皿にはジャガイモを入れた野菜炒めとご飯が乗っていました。ということは、おそらく彼女の目には、私はパンをおかずにご飯を食べているように映っているんだろうなぁと不思議な気がした。
でも、日本にはラーメンライスとかもあるし。(そういう意味じゃない???)
そんなフランチェスカは全身黒尽くめで、やっぱり一見近寄りがたい子でした。
ドイツ人のフランチェスカ(彼女いわく、「チェ」は「ch」ではなく「z」の発音だとの事。か〜な〜り、こだわってました)は、20か21のまだ若い交換留学生だった。彼女は旧東ドイツのエリア出身で、質実剛健という言葉がとっても似合っていた。食料品は、高めのスーパーからは買わず、市場で買うようにしていたし、いくつもお店を回って、一番安いところを探すようにしていた。ただ、ケチではなく、何か作ってはおすそ分けをしてくれる、やさしい子だった。
クリスマス休暇、家に帰らずにそのイギリスの長屋に住んでいたのは彼女と私だけだった。その間に私達はすごく仲良くなり、毎日のようにリビングでカードゲームをしていた。他に何をしていたのか、覚えていないぐらい毎日毎日飽きもせずにカードゲームに興じていた。
彼女の話を聞いていると、多少、白人至上主義なのか、だったのか、周りがそうなのかという印象が拭えなかった。ただ、彼女は頭のいい子だったので、その考えを表には決して出さず、私やインド系のイギリス人の子と接していたが、たまに言葉の端々から彼女の考え方が垣間見えることがあった。
海外にいると日本では考えられないくらいたような考え方をする人と出合うことができる。いちいち説明をしなきゃならないこともあったりして疲れることもあるが、幅広いものの見方や考え方に触れることが出来るので、とても楽しい。白人至上主義のような、重いテーマもあれば、楽しい、軽いテーマもある。
こんなこともあった。私がありあわせの食材で夕食を作り、リビングで食べたとき、彼女が一言。「日本人はジャガイモを野菜とみなしてるでしょ?」
ええそうですが?
という感じですが、確かにジャガイモは炭水化物。そのときの私のお皿にはジャガイモを入れた野菜炒めとご飯が乗っていました。ということは、おそらく彼女の目には、私はパンをおかずにご飯を食べているように映っているんだろうなぁと不思議な気がした。
でも、日本にはラーメンライスとかもあるし。(そういう意味じゃない???)
そんなフランチェスカは全身黒尽くめで、やっぱり一見近寄りがたい子でした。
6カ国8人の生活 その5
2007年4月19日 異文化
6カ国8人と共同生活をしていました。
ギリシャ人のヴァンゲロスは、真っ黒の髪の毛に濃い目鼻立ちで、どちらかと言うとアラブ系のような容貌だった。年齢は誰よりも上で、30代半ばだったと思う。映像系の勉強をしていた大学院生だった。
ギリシャでは、誕生日のほかに自分の名前の日みたいなのがあり、誕生日と同じぐらいかそれ以上に祝うと言うことだった。ヴァンゲロスの名前の日は2月か3月で、少しずつ日が長くなってきていた時期だったように記憶している。その時、彼が彼のギリシャの友達を招待し、うちでパーティーをした。
彼から、その前日に名前の日のお祝いで友達を呼ぶから、良かったら参加しないかと誘われていた。彼の友達のうち一人はしょっちゅううちに来ていたし、一緒に遊びに行ったこともあったので、喜んで参加させてもらうことにした(その友達は結構かっこよかったので、私のお気に入りでもあった!)。
その日、学校から帰ってきたら既にパーティーは始まりかけていた。まだ人数はあまりいないようで、2、3人の声しか聞こえなかった。私はちょっとワクワクしながらドアを開けたが、その瞬間かなり後悔した。なぜなら、お気に入りの彼はおらず、ヴァンゲロスと一緒にそこにいた人は、道端で会ったら絶対に視線を避けるような人だったからだ。
革のパンツと革のジャケットを羽織った彼は、両耳は上から下まで輪っかのピアスがずらりと並び、鼻から口へはチェーンのピアスがぶら下がっていた。更に革のジャケットの下に着ていた白い長袖Tシャツの袖からは黒っぽい刺青(あえてタトゥーとは言わない)が覗いていた。
私はこわごわ自己紹介をし、リビングに座った。本当は部屋を出たかったのだが、入ってすぐに出るのはいくらなんでもまずいと思い、踏みとどまった。ヴァンゲロスは私のことを「日本から来たんだよ」と紹介をしてくれた。その瞬間、革とピアスと刺青の男は「えっ、日本!?」と怖い目つきをギョロリとさせ、一言いった。
「ぼく、子供のころキャンディキャンディが大好きだったんだよね」
それから他の参加者が集まり、食べ物が並ぶまで30分ぐらい、目を輝かせながらキャンディキャンディの話を一生懸命してくれました。
人は見かけで判断してはいけません。
ギリシャ人のヴァンゲロスは、真っ黒の髪の毛に濃い目鼻立ちで、どちらかと言うとアラブ系のような容貌だった。年齢は誰よりも上で、30代半ばだったと思う。映像系の勉強をしていた大学院生だった。
ギリシャでは、誕生日のほかに自分の名前の日みたいなのがあり、誕生日と同じぐらいかそれ以上に祝うと言うことだった。ヴァンゲロスの名前の日は2月か3月で、少しずつ日が長くなってきていた時期だったように記憶している。その時、彼が彼のギリシャの友達を招待し、うちでパーティーをした。
彼から、その前日に名前の日のお祝いで友達を呼ぶから、良かったら参加しないかと誘われていた。彼の友達のうち一人はしょっちゅううちに来ていたし、一緒に遊びに行ったこともあったので、喜んで参加させてもらうことにした(その友達は結構かっこよかったので、私のお気に入りでもあった!)。
その日、学校から帰ってきたら既にパーティーは始まりかけていた。まだ人数はあまりいないようで、2、3人の声しか聞こえなかった。私はちょっとワクワクしながらドアを開けたが、その瞬間かなり後悔した。なぜなら、お気に入りの彼はおらず、ヴァンゲロスと一緒にそこにいた人は、道端で会ったら絶対に視線を避けるような人だったからだ。
革のパンツと革のジャケットを羽織った彼は、両耳は上から下まで輪っかのピアスがずらりと並び、鼻から口へはチェーンのピアスがぶら下がっていた。更に革のジャケットの下に着ていた白い長袖Tシャツの袖からは黒っぽい刺青(あえてタトゥーとは言わない)が覗いていた。
私はこわごわ自己紹介をし、リビングに座った。本当は部屋を出たかったのだが、入ってすぐに出るのはいくらなんでもまずいと思い、踏みとどまった。ヴァンゲロスは私のことを「日本から来たんだよ」と紹介をしてくれた。その瞬間、革とピアスと刺青の男は「えっ、日本!?」と怖い目つきをギョロリとさせ、一言いった。
「ぼく、子供のころキャンディキャンディが大好きだったんだよね」
それから他の参加者が集まり、食べ物が並ぶまで30分ぐらい、目を輝かせながらキャンディキャンディの話を一生懸命してくれました。
人は見かけで判断してはいけません。
6カ国8人の生活 その4
2007年4月18日 異文化
イギリスで6カ国8人の生活をしていました。
私は3階の部屋に住んでいた。屋根裏部屋のような感じで、天井の一部が斜めになっていて、何回か頭をぶつけて痛い目を見た。部屋の一面に大きな窓があり、天気のいい日は日当たりも良く、小さい部屋であったが居心地は良かった。
すぐ下には裏庭が見え、裏庭の向こうは別の家の裏庭と別の家の部屋が見えた。長屋同士が背を向けて立ち並び、その間に裏庭があるといえば分かりやすいだろうか。私の部屋の窓から、向かいの家がちょっと遠くではあるけれども見え、中に住んでいる人の生活が垣間見えた。覗きの趣味はないけれども、人が生活している様子を少し覗くのは楽しいものだった。洗濯物を干すおばさんや、机に向かって勉強らしきことをしている少年を見てはあっという間に時間が過ぎていった。
長屋はせいぜい三階建てで、どの家も同じ高さなので、空を隠すような大きな建物はなく、部屋の窓からは空が良く見えた。天気のいい日は青空を眺めながら、雲が流れて行くのをじっと見ていたり、天気が悪い日は空いっぱいの厚い雲の、色の違いを飽きもせず眺めていた。
手入れをされていない部屋、家具であったため、床から釘のようなものが出ていて、一度足から少しだけであるが血を流したことがあったし、大雨の日にはひどい雨漏りもした。クローゼットなんていうたいそうなものはなく、壁にパイプが伸びていてそこに服を吊るしていた。小さな戸棚があったが、観音扉の形をした扉がしっかり閉まらず、ほっておくと扉が開きっぱなしであった。真っ白な壁は殺風景で、味気ないものであった。
やはり窓の影響は大きかったと思う。それだけ質素で殺風景な部屋であったし、住んでいた9月から5月のうち10月から3月ぐらいまでは朝8時過ぎまで真っ暗、午後3時過ぎるとまた真っ暗なので部屋の中では電気をいつもつけていたはずである。更に、その間はほぼ毎日曇天であったにもかかわらず、私の中の記憶では私の部屋は日の光がさんさんと入る、明るい部屋である。
そのあと住んだフランスのアパートは逆に日の光がほとんど入らない部屋で、かなり気が滅入った。今住んでいるところは窓がたくさんある家だ。初めてここを見たときに一目で気に入った。私の窓好きの原点はイギリスの、あの長屋かもしれない。
私は3階の部屋に住んでいた。屋根裏部屋のような感じで、天井の一部が斜めになっていて、何回か頭をぶつけて痛い目を見た。部屋の一面に大きな窓があり、天気のいい日は日当たりも良く、小さい部屋であったが居心地は良かった。
すぐ下には裏庭が見え、裏庭の向こうは別の家の裏庭と別の家の部屋が見えた。長屋同士が背を向けて立ち並び、その間に裏庭があるといえば分かりやすいだろうか。私の部屋の窓から、向かいの家がちょっと遠くではあるけれども見え、中に住んでいる人の生活が垣間見えた。覗きの趣味はないけれども、人が生活している様子を少し覗くのは楽しいものだった。洗濯物を干すおばさんや、机に向かって勉強らしきことをしている少年を見てはあっという間に時間が過ぎていった。
長屋はせいぜい三階建てで、どの家も同じ高さなので、空を隠すような大きな建物はなく、部屋の窓からは空が良く見えた。天気のいい日は青空を眺めながら、雲が流れて行くのをじっと見ていたり、天気が悪い日は空いっぱいの厚い雲の、色の違いを飽きもせず眺めていた。
手入れをされていない部屋、家具であったため、床から釘のようなものが出ていて、一度足から少しだけであるが血を流したことがあったし、大雨の日にはひどい雨漏りもした。クローゼットなんていうたいそうなものはなく、壁にパイプが伸びていてそこに服を吊るしていた。小さな戸棚があったが、観音扉の形をした扉がしっかり閉まらず、ほっておくと扉が開きっぱなしであった。真っ白な壁は殺風景で、味気ないものであった。
やはり窓の影響は大きかったと思う。それだけ質素で殺風景な部屋であったし、住んでいた9月から5月のうち10月から3月ぐらいまでは朝8時過ぎまで真っ暗、午後3時過ぎるとまた真っ暗なので部屋の中では電気をいつもつけていたはずである。更に、その間はほぼ毎日曇天であったにもかかわらず、私の中の記憶では私の部屋は日の光がさんさんと入る、明るい部屋である。
そのあと住んだフランスのアパートは逆に日の光がほとんど入らない部屋で、かなり気が滅入った。今住んでいるところは窓がたくさんある家だ。初めてここを見たときに一目で気に入った。私の窓好きの原点はイギリスの、あの長屋かもしれない。
6カ国8人の生活 その3
2007年4月16日 異文化
イギリスの田舎町で6カ国8人の共同生活をしていました。
台所の話はまだまだ続きます。
流し台は白いセラミックっぽいもので、大きくはないけれどもそれなりに深さもあり、冷蔵庫に比べて文句を言うような点はなかった。ただ、一点を除いて。。。
それは、お湯と水の蛇口が離れていること。日本では、お湯と水の栓はそれぞれ別でも蛇口(水が出てくるところ)は一緒になっていて、蛇口からは完全に混ざり合ってないこともあるかもしれないけれども、基本的に適温のお湯が出てくることが多いと思う。
イギリスではなぜかお湯の蛇口と水の蛇口がそれぞれついていて、それぞれが固定されていて、さらにお互いが10cmぐらい離れていた。
冬の寒いときにはお湯で食器を洗いたい。が、しかし、お湯の蛇口から出てくるものは熱湯に近い温度のお湯。水の蛇口から出てくるものは凍るように冷たい水。でも、バラバラに離れているから右手は氷の中のよう。左手は火傷しそう。と、こんな感じで、ものすごく不便であった。どうやらイギリスでは水をためて洗い物をするからだそうであるが、ちょっと手を洗うとか、数枚(数個)の食器を洗うだけなら水をためるのももったいないのでちゃっちゃと洗っちゃいたいところであるが、それが出来なかった。
あと、イギリス(アイルランドもそうだといううわさ)では、食器用洗剤で洗った食器をそのままラックにのせ、そのまま乾燥させる。つまり、洗剤は洗い流さないのだ。噂には聞いていたけれども目の当たりにしたときはちょっとショックだった。その上に食べ物置いたら、洗剤を口に入れてるようなものなのに〜〜〜
私達は食器を共有していたため、それを見てからはどんなにきれいに見えるお皿であっても一度水洗いをしてから使っていた。そして、ドイツ人も同じ事をしていた。(笑)
台所の話はまだまだ続きます。
流し台は白いセラミックっぽいもので、大きくはないけれどもそれなりに深さもあり、冷蔵庫に比べて文句を言うような点はなかった。ただ、一点を除いて。。。
それは、お湯と水の蛇口が離れていること。日本では、お湯と水の栓はそれぞれ別でも蛇口(水が出てくるところ)は一緒になっていて、蛇口からは完全に混ざり合ってないこともあるかもしれないけれども、基本的に適温のお湯が出てくることが多いと思う。
イギリスではなぜかお湯の蛇口と水の蛇口がそれぞれついていて、それぞれが固定されていて、さらにお互いが10cmぐらい離れていた。
冬の寒いときにはお湯で食器を洗いたい。が、しかし、お湯の蛇口から出てくるものは熱湯に近い温度のお湯。水の蛇口から出てくるものは凍るように冷たい水。でも、バラバラに離れているから右手は氷の中のよう。左手は火傷しそう。と、こんな感じで、ものすごく不便であった。どうやらイギリスでは水をためて洗い物をするからだそうであるが、ちょっと手を洗うとか、数枚(数個)の食器を洗うだけなら水をためるのももったいないのでちゃっちゃと洗っちゃいたいところであるが、それが出来なかった。
あと、イギリス(アイルランドもそうだといううわさ)では、食器用洗剤で洗った食器をそのままラックにのせ、そのまま乾燥させる。つまり、洗剤は洗い流さないのだ。噂には聞いていたけれども目の当たりにしたときはちょっとショックだった。その上に食べ物置いたら、洗剤を口に入れてるようなものなのに〜〜〜
私達は食器を共有していたため、それを見てからはどんなにきれいに見えるお皿であっても一度水洗いをしてから使っていた。そして、ドイツ人も同じ事をしていた。(笑)
6カ国8人の生活 その2
2007年4月15日 異文化
イギリス時代に6カ国8人で住んでいた家のキッチンは古いものの結構広く、快適なものであった。流しの正面に窓があり、小さな裏庭が見えたが、前庭同様手入れをしていなかったため草がボウボウに生えていて、実際に裏に出たのも数えるほどだった。でも、台所に窓があるという開放感が好きで、私のお気に入りの場所でもあった。
8人が住んでいる割に冷蔵庫が小さく、それがゆえに私達は困ることが多かった。一人暮らしサイズの冷蔵庫だったので、あまり物が入らない。更に私達は自分のものは自分で買う方針だったため、ヨーグルトや牛乳等すぐに消費できないものが三つも四つも冷蔵庫にあった。だから、肉や魚など、要冷蔵の食料品は買い置きが出来ず、しょっちゅうスーパーに行っていた。
二人の中国人はカップルで、全然私達と交流を持たなかった。それに関しては別に問題がないのだが、彼らは自分中心に生活をする、ちょっと困った人たちであった。それだけ小さい冷蔵庫だから、お互いに譲り合って使わなければならないのに、大量に食料品を買ってきて、全部入らないとほかの人の食料品を出したりしていた。また、その冷蔵庫には冷凍庫が付いていなかったのだが、いっぱい買ってきた食料品を凍らそうと思ったのか、冷蔵庫の温度を最大限下げ、気付いたらヨーグルトや牛乳が凍っていたことがあった。
最初は間違って回したのかと思って適温に戻していたのだが、気がつくとまたキンキンに冷えていた。いい加減頭にきた私達は彼らに温度を下げすぎないよう言ったのだが、「買った食糧が悪くなったらどうしてくれるんだ」とくる。
彼らの食料は大事だけど、私達の食料はどうなってもいいっていうこと???何度話しても埒が明かなかったのでほとほと困っていたある日、生粋イギリス人のRobがすごいものを買ってきた!
瞬間接着剤!
彼はこれでダイヤルを固定してしまった!数時間後ダイヤルが動かないことに気付いて文句を言いに来た彼らに「あまり動かしすぎたからうごかなくなっちゃったみたいだよ」と一言!
あとで大笑いした。きっと今でもあの冷蔵庫のダイヤルは動かないんだろうな。
8人が住んでいる割に冷蔵庫が小さく、それがゆえに私達は困ることが多かった。一人暮らしサイズの冷蔵庫だったので、あまり物が入らない。更に私達は自分のものは自分で買う方針だったため、ヨーグルトや牛乳等すぐに消費できないものが三つも四つも冷蔵庫にあった。だから、肉や魚など、要冷蔵の食料品は買い置きが出来ず、しょっちゅうスーパーに行っていた。
二人の中国人はカップルで、全然私達と交流を持たなかった。それに関しては別に問題がないのだが、彼らは自分中心に生活をする、ちょっと困った人たちであった。それだけ小さい冷蔵庫だから、お互いに譲り合って使わなければならないのに、大量に食料品を買ってきて、全部入らないとほかの人の食料品を出したりしていた。また、その冷蔵庫には冷凍庫が付いていなかったのだが、いっぱい買ってきた食料品を凍らそうと思ったのか、冷蔵庫の温度を最大限下げ、気付いたらヨーグルトや牛乳が凍っていたことがあった。
最初は間違って回したのかと思って適温に戻していたのだが、気がつくとまたキンキンに冷えていた。いい加減頭にきた私達は彼らに温度を下げすぎないよう言ったのだが、「買った食糧が悪くなったらどうしてくれるんだ」とくる。
彼らの食料は大事だけど、私達の食料はどうなってもいいっていうこと???何度話しても埒が明かなかったのでほとほと困っていたある日、生粋イギリス人のRobがすごいものを買ってきた!
瞬間接着剤!
彼はこれでダイヤルを固定してしまった!数時間後ダイヤルが動かないことに気付いて文句を言いに来た彼らに「あまり動かしすぎたからうごかなくなっちゃったみたいだよ」と一言!
あとで大笑いした。きっと今でもあの冷蔵庫のダイヤルは動かないんだろうな。
6カ国8人の生活 その1
2007年4月14日 異文化
先日、ふとしたことから思い出した
私は数年前、イギリスで学校に通っていた。その学校に通っていた学生達7人と一つの家をシェアしていた。別に忘れていたわけじゃないけど、なんとなく思い出して、懐かしくなった。
面白い生活だった。
構成人種は
イギリス人二人(生粋のイギリス人一人、インド系イギリス人一人)
デンマーク人
ドイツ人
ギリシャ人
中国人 二人
日本人 私
であった。
よくあるように、以前から知り合いだった友達がシェアをしたのではなく、全員その年に母国から来た外国人か、編入・入学したばかりであったため、誰もその街に詳しくない人が、大学のハウジングサービスを活用して紹介してもらった物件だ。
イギリスの住宅街の象徴ともいえるような、赤いレンガの長屋がその家であった。坂の途中に立っていたので、隣同士であっても多少の段差があり、長屋でありながら長屋でないような、そんな家だった。道路から玄関まで小さな前庭のようなものがあり、キチンと手入れされている家もあったが、私達の家は雑草伸び放題であった。両隣はインド(かパキスタン)系の家族で、同じように前庭はほったらかしだったので気兼ねなく(?)ほったらかしにしておいた。家自体は結構古い建物で、あちこちがガタピシいっていたし、冬場は結構寒かった。
玄関を入ってすぐ正面左側に上階への階段があり、右手にはリビングがあった。殺風景なリビングであった。リビングの隣の寝室にはドイツ人が住んでいた。正面の奥にはキッチンがあり、キッチンの入り口は階段の陰に隠れていたが、玄関から入って正面の壁にガラスがはまっていたので、玄関を開けるとキッチンが見え、誰かがいればすぐ分かる造りだった。キッチンで色々な話をしたり、笑いあったり、時には言い争いや静かな戦いがあったりした。今となっては良い思い出。
つづく
私は数年前、イギリスで学校に通っていた。その学校に通っていた学生達7人と一つの家をシェアしていた。別に忘れていたわけじゃないけど、なんとなく思い出して、懐かしくなった。
面白い生活だった。
構成人種は
イギリス人二人(生粋のイギリス人一人、インド系イギリス人一人)
デンマーク人
ドイツ人
ギリシャ人
中国人 二人
日本人 私
であった。
よくあるように、以前から知り合いだった友達がシェアをしたのではなく、全員その年に母国から来た外国人か、編入・入学したばかりであったため、誰もその街に詳しくない人が、大学のハウジングサービスを活用して紹介してもらった物件だ。
イギリスの住宅街の象徴ともいえるような、赤いレンガの長屋がその家であった。坂の途中に立っていたので、隣同士であっても多少の段差があり、長屋でありながら長屋でないような、そんな家だった。道路から玄関まで小さな前庭のようなものがあり、キチンと手入れされている家もあったが、私達の家は雑草伸び放題であった。両隣はインド(かパキスタン)系の家族で、同じように前庭はほったらかしだったので気兼ねなく(?)ほったらかしにしておいた。家自体は結構古い建物で、あちこちがガタピシいっていたし、冬場は結構寒かった。
玄関を入ってすぐ正面左側に上階への階段があり、右手にはリビングがあった。殺風景なリビングであった。リビングの隣の寝室にはドイツ人が住んでいた。正面の奥にはキッチンがあり、キッチンの入り口は階段の陰に隠れていたが、玄関から入って正面の壁にガラスがはまっていたので、玄関を開けるとキッチンが見え、誰かがいればすぐ分かる造りだった。キッチンで色々な話をしたり、笑いあったり、時には言い争いや静かな戦いがあったりした。今となっては良い思い出。
つづく
昔のお話
私が20代半ばごろ、海外を旅行していたときに20歳ぐらいのドイツ人の女の子と知り合いになった。今はもう音信不通になってしまったけれども、私の中に強烈な影響力を及ぼしてくれた人のうちの一人で、何かと思い出す。
私が彼女と出会ったのは、彼女がインドを数ヶ月旅行し、ビザを取るためにタイに滞在していたときだった。小さなトタン屋根のヌードルショップでどちらからともなく話し始めたのがきっかけだった。童顔で、背も小さなかわいらしい子だった。
旅行中に会ったので、実際に会ったのは数日だと思うし、一緒に行動してなかったので会話も延べ数時間に過ぎないと思う。
そんな彼女は初の海外旅行でインドに行き、インドに魅せられていた。何故そんなにインドが良いのか聞いたら、彼女は一言「私がとっても幸せなことに気付かせてくれたから」と。彼女が生い立ちについて感謝している気持ちは良く分かったので、本当にその通りだと思った。
翌年、私はベトナムに行った。形だけの共産主義の影響か、タイよりも貧富の差が激しく、上昇志向が強かった。「買う、買わない」で何度本気で言い合いをしたか分からないほどだ。毎日どこで誰が何をたくらんでいるのか分からず、全てのことに対して疑心暗鬼になり、それと同時にたった100円程度に目くじらを立てている自分に自己嫌悪を感じた。
あるいは、小さな女の子が物売りに来る。彼女から物を買ってあげるのは全く問題ないが、そうすると他の子からも買わないといけなくなり、どこかで線引きをする必要が出てくる。線引きをするぐらいなら最初から買わないほうが良いとなる。でもそうすると誰にもお金が入らなくなってしまう。
そんな国に3週間もいた後、気分的に参ってしまい、旅行に行ったこと自体を後悔し始めていた。「貧富の差を受け止める心構えと技量がないのに行ってしまったのは軽率だったのではないか」、と。また、豊かな国に生まれ育ったことに対してすら罪悪感を感じていた。
そんな時、一年前に会ったドイツ人の女の子の言葉がよみがえってきた。私がどんなに幸せなのか、分かることができたからインドが好き、と言っていた彼女の気持ちが手に取るように理解できた。
世界中には貧富の差があり、現実はかなり辛いし悲しい。でも、それはまぎれもない現実であって、私一人の力ではどうにも仕様がない。そんな私が出来ることは、見なかったフリをせず、しっかりと心に貧富の差の様子を見、人に伝え、そして私がいかに幸せかをかみ締めることだと思う。
きっと、彼女に言いたかったことはこれだけ深かったはずだ。もう一度彼女に会って、もっとしっかり話を聞いてみたい。
私が20代半ばごろ、海外を旅行していたときに20歳ぐらいのドイツ人の女の子と知り合いになった。今はもう音信不通になってしまったけれども、私の中に強烈な影響力を及ぼしてくれた人のうちの一人で、何かと思い出す。
私が彼女と出会ったのは、彼女がインドを数ヶ月旅行し、ビザを取るためにタイに滞在していたときだった。小さなトタン屋根のヌードルショップでどちらからともなく話し始めたのがきっかけだった。童顔で、背も小さなかわいらしい子だった。
旅行中に会ったので、実際に会ったのは数日だと思うし、一緒に行動してなかったので会話も延べ数時間に過ぎないと思う。
そんな彼女は初の海外旅行でインドに行き、インドに魅せられていた。何故そんなにインドが良いのか聞いたら、彼女は一言「私がとっても幸せなことに気付かせてくれたから」と。彼女が生い立ちについて感謝している気持ちは良く分かったので、本当にその通りだと思った。
翌年、私はベトナムに行った。形だけの共産主義の影響か、タイよりも貧富の差が激しく、上昇志向が強かった。「買う、買わない」で何度本気で言い合いをしたか分からないほどだ。毎日どこで誰が何をたくらんでいるのか分からず、全てのことに対して疑心暗鬼になり、それと同時にたった100円程度に目くじらを立てている自分に自己嫌悪を感じた。
あるいは、小さな女の子が物売りに来る。彼女から物を買ってあげるのは全く問題ないが、そうすると他の子からも買わないといけなくなり、どこかで線引きをする必要が出てくる。線引きをするぐらいなら最初から買わないほうが良いとなる。でもそうすると誰にもお金が入らなくなってしまう。
そんな国に3週間もいた後、気分的に参ってしまい、旅行に行ったこと自体を後悔し始めていた。「貧富の差を受け止める心構えと技量がないのに行ってしまったのは軽率だったのではないか」、と。また、豊かな国に生まれ育ったことに対してすら罪悪感を感じていた。
そんな時、一年前に会ったドイツ人の女の子の言葉がよみがえってきた。私がどんなに幸せなのか、分かることができたからインドが好き、と言っていた彼女の気持ちが手に取るように理解できた。
世界中には貧富の差があり、現実はかなり辛いし悲しい。でも、それはまぎれもない現実であって、私一人の力ではどうにも仕様がない。そんな私が出来ることは、見なかったフリをせず、しっかりと心に貧富の差の様子を見、人に伝え、そして私がいかに幸せかをかみ締めることだと思う。
きっと、彼女に言いたかったことはこれだけ深かったはずだ。もう一度彼女に会って、もっとしっかり話を聞いてみたい。
お祭り騒ぎ
形は少しずつ変わってきているけど、年々興奮度が上がってきているような気がするバレンタインズデー。
私が昔アメリカにいたときに見た限りでは、大して盛り上がらない。日本で言うと、七夕とかひな祭りとかみたいに、今日が何の日かは知ってて、何かする人もいるけど何もしない人も結構いる、っていうレベルの行事。
「あぁ今日、バレンタインズデーだね」と言いながら何もしない人が多い気がする。
ヨーロッパに至っては、バレンタインズデーをそもそも知らないかも、っていうぐらい静かな日。もぅ、巷では普通の一日。
それより、不思議なのは何で日本では「オンナ」が「オトコ」になんだろ?「チョコレート」をあげるというのも、チョコレート業界の陰謀のような気がする。
「変なの」とは思うけど、チョコレート好きの私とせんぴこ君にとっては、色々なチョコレートを食べる機会に恵まれるチャンスでもある。バレンタインズデースペシャルみたいなのがあったりするし、スーパーの棚を見ても普段以上の品揃えが嬉しい。
実は、行事は二の次だったりするのかしら?皆さん??
ちなみに、バレンタインズデーに全く関心のないせんぴこ君はいつがバレンタインズデーなのか、昨日(2/14)まで知りませんでした。
形は少しずつ変わってきているけど、年々興奮度が上がってきているような気がするバレンタインズデー。
私が昔アメリカにいたときに見た限りでは、大して盛り上がらない。日本で言うと、七夕とかひな祭りとかみたいに、今日が何の日かは知ってて、何かする人もいるけど何もしない人も結構いる、っていうレベルの行事。
「あぁ今日、バレンタインズデーだね」と言いながら何もしない人が多い気がする。
ヨーロッパに至っては、バレンタインズデーをそもそも知らないかも、っていうぐらい静かな日。もぅ、巷では普通の一日。
それより、不思議なのは何で日本では「オンナ」が「オトコ」になんだろ?「チョコレート」をあげるというのも、チョコレート業界の陰謀のような気がする。
「変なの」とは思うけど、チョコレート好きの私とせんぴこ君にとっては、色々なチョコレートを食べる機会に恵まれるチャンスでもある。バレンタインズデースペシャルみたいなのがあったりするし、スーパーの棚を見ても普段以上の品揃えが嬉しい。
実は、行事は二の次だったりするのかしら?皆さん??
ちなみに、バレンタインズデーに全く関心のないせんぴこ君はいつがバレンタインズデーなのか、昨日(2/14)まで知りませんでした。
「ステップ!ステップ!ステップ!」
2007年1月13日 異文化
「ステップ!ステップ!ステップ」"mad hot Ballroom"(オリジナルタイトル)という映画をDVDを借りて見た。
NY市内の公立小学校で授業の一環としてダンスの授業があり、メレンゲやタンゴなどを練習し、最終的には競技が開かれる。
映画の中では3つの学校が取り上げられているが、最初の学校紹介で地域の様子が描かれていて、子供たちのいる環境が分かる。
偏った知識ではあるが、NY市内で公立の小学校に通うのは、主に低所得者層の子供であると言えるはずだ。学校によってレベルの差がすごく大きいアメリカでは、日本以上に『どの』学区域に住むかが重要になる。子供にいい教育を与えたいと思う親はいい学区域に引っ越す場合が多い。私立という選択肢もあるが、日本ほど数が多くないのか、それほど聞かない。
つまり、この映画に出てくる子供達は熾烈な環境で育ってきている可能性が高く、これからもその環境から抜け出るのは難しいだろう。しかし、授業の一環とはいえダンスから多くのことを学んだようだ。望んだ結果が得られなくとも、「努力をする」ということで何かしらのものを得ることを体で学んだ子供達はこの先の人生でも間違った方向には行かないんじゃないかな、なんて思ってみたりする。
日本でダンスの授業なんてあるのかしら?
多くの子供達に幸あれ
NY市内の公立小学校で授業の一環としてダンスの授業があり、メレンゲやタンゴなどを練習し、最終的には競技が開かれる。
映画の中では3つの学校が取り上げられているが、最初の学校紹介で地域の様子が描かれていて、子供たちのいる環境が分かる。
偏った知識ではあるが、NY市内で公立の小学校に通うのは、主に低所得者層の子供であると言えるはずだ。学校によってレベルの差がすごく大きいアメリカでは、日本以上に『どの』学区域に住むかが重要になる。子供にいい教育を与えたいと思う親はいい学区域に引っ越す場合が多い。私立という選択肢もあるが、日本ほど数が多くないのか、それほど聞かない。
つまり、この映画に出てくる子供達は熾烈な環境で育ってきている可能性が高く、これからもその環境から抜け出るのは難しいだろう。しかし、授業の一環とはいえダンスから多くのことを学んだようだ。望んだ結果が得られなくとも、「努力をする」ということで何かしらのものを得ることを体で学んだ子供達はこの先の人生でも間違った方向には行かないんじゃないかな、なんて思ってみたりする。
日本でダンスの授業なんてあるのかしら?
多くの子供達に幸あれ
モテ期 天気:雨のち晴れ(大阪から東京へ)
2006年10月11日 異文化ま、過去の話です。
先日、友人とお酒を飲みながら、人生に一回ぐらい「すんごいモテた時期」ってあったよねぇ、という話をしました。
私は「いや、なかったなぁ」とか思ったのですが、よくよく考えたら、確かにありました。ものすご〜くモテた時が。たった3週間でしたが… なぜ3週間と期限まで覚えているかというと、ベトナム人似の私がタイを旅行したときにその旅行中モテモテだったからなんです。
それはそれはすごかった。
最初に、タイについてすぐに乗った長距離列車の中でのこと。お菓子やスナックを車内で売っていた売り子さん(オンナ)がしきりに私に何かを伝えようとしていたのですが、顔は東南アジア系でも頭脳はついていかなかったので会話にならず、「???」という顔をしていたら、近くに座っていた人から片言の英語で「シーセイ、ユーアービューティホー」といわれました。びっくりしましたが、電車の車内販売の売り子さん(オンナですってば)にものすご〜く気に入られたようでした。その売り子さん、言葉で伝えるだけでは物足りなかったのか、他の車両にいた同僚を連れてきて私を見せる始末。見世物じゃないってのに。
それ以降、老若男女問わず(若い男だけじゃなかったことが悲しいところ)に「ユーアービューティホー」と何回言われたことか。
帰りの長距離列車では、タイのオカマ(見た目は男のままだったけど、口ぶり、動きがオネエでした)に「あなたの髪の毛ステキ。結ってもいい?」といじくられ、もてあそばれた始末でした。
あれはなんだったんだろう?女性や半女性に言われても、モテた時期と言っていいのかしら???
ま、悪い気はしないわね。うふ。
先日、友人とお酒を飲みながら、人生に一回ぐらい「すんごいモテた時期」ってあったよねぇ、という話をしました。
私は「いや、なかったなぁ」とか思ったのですが、よくよく考えたら、確かにありました。ものすご〜くモテた時が。たった3週間でしたが… なぜ3週間と期限まで覚えているかというと、ベトナム人似の私がタイを旅行したときにその旅行中モテモテだったからなんです。
それはそれはすごかった。
最初に、タイについてすぐに乗った長距離列車の中でのこと。お菓子やスナックを車内で売っていた売り子さん(オンナ)がしきりに私に何かを伝えようとしていたのですが、顔は東南アジア系でも頭脳はついていかなかったので会話にならず、「???」という顔をしていたら、近くに座っていた人から片言の英語で「シーセイ、ユーアービューティホー」といわれました。びっくりしましたが、電車の車内販売の売り子さん(オンナですってば)にものすご〜く気に入られたようでした。その売り子さん、言葉で伝えるだけでは物足りなかったのか、他の車両にいた同僚を連れてきて私を見せる始末。見世物じゃないってのに。
それ以降、老若男女問わず(若い男だけじゃなかったことが悲しいところ)に「ユーアービューティホー」と何回言われたことか。
帰りの長距離列車では、タイのオカマ(見た目は男のままだったけど、口ぶり、動きがオネエでした)に「あなたの髪の毛ステキ。結ってもいい?」といじくられ、もてあそばれた始末でした。
あれはなんだったんだろう?女性や半女性に言われても、モテた時期と言っていいのかしら???
ま、悪い気はしないわね。うふ。
日本のサービスとアメリカのサービス 天気:嵐
2006年10月6日 異文化雨と風、すごかったねぇ〜
日本はサービスの質が高いと評判だよね。きちんと対応するし、丁寧だし。一方、アメリカはフランクなところもあるけど、自然な応対だし、客と対等なスタンスを保つところもキライではない。
日本は、マニュアル偏重になったり、没個性になったりしがちなところも否めない。しか〜し、アメリカって差が激しすぎる気がする。
これは、今朝のこと。せんぴこ君が母国アメリカのメインバンクに電話をかけ、国際送金について聞こうとしたら、電話口の女性は「支店に来ていただかないと出来ません」。せんぴこ君は日本に来る前にその銀行と話をしていて、書類のやり取りをすれば外国にいるときにも海外送金できることを聞いていたので、それについて言った途端
電話切りやがった!
ありえない…
せんぴこ君は一言「そうだ、これがアメリカのサービスだった」
お金を送るのも一苦労。
日本はサービスの質が高いと評判だよね。きちんと対応するし、丁寧だし。一方、アメリカはフランクなところもあるけど、自然な応対だし、客と対等なスタンスを保つところもキライではない。
日本は、マニュアル偏重になったり、没個性になったりしがちなところも否めない。しか〜し、アメリカって差が激しすぎる気がする。
これは、今朝のこと。せんぴこ君が母国アメリカのメインバンクに電話をかけ、国際送金について聞こうとしたら、電話口の女性は「支店に来ていただかないと出来ません」。せんぴこ君は日本に来る前にその銀行と話をしていて、書類のやり取りをすれば外国にいるときにも海外送金できることを聞いていたので、それについて言った途端
電話切りやがった!
ありえない…
せんぴこ君は一言「そうだ、これがアメリカのサービスだった」
お金を送るのも一苦労。
ベトナム人みたいな私と日本人みたいな彼
2006年10月3日 異文化日記のタイトル変更したよ。
ええ、私、ベトナムで何度も何度もベトナム人に間違えられました。それもベトナム人が間違えるんだからすごいよね。ベトナム人って、みんな線が細くて小さくて、日本では並みのサイズの私はあの国では巨人になっちゃうから、溶け込んでないと思うんだけど…
ま、そのお陰で色々親切にしてもらったりしたのでとっても嬉しいのですが、日本のパスポートを見せる国境で、入管の人にベトナム語を話されたときには「おい、パスポート見ろ」と思ったけどね。
彼、せんぴこ君、は見た目はどうしたって日本人ではないのだが、実は彼、背中にチャックがあり、ジジジィっと開けると中から日本人が飛び出してくるんじゃないかと思われるほど、中身が日本人。ハンバーガー、コーラ、ポテトチップスは大嫌い。白米は毎日でも大丈夫。漬物や辛子明太子なんかがあれば上機嫌。納豆、梅干しに関しては、私と取り合い。
畳と布団が好きで、ふわふわのベッドや大きいソファへの執着はない。
そして何よりも、日本の服のサイズが合う!せんぴこ君はアメリカ人としては大きくないほうなので、日本のLサイズがピッタリ。袖とか、裾とかホントあつらえたように見えることも。椅子の高さとかも合うみたいだし。
変わった二人です。
ええ、私、ベトナムで何度も何度もベトナム人に間違えられました。それもベトナム人が間違えるんだからすごいよね。ベトナム人って、みんな線が細くて小さくて、日本では並みのサイズの私はあの国では巨人になっちゃうから、溶け込んでないと思うんだけど…
ま、そのお陰で色々親切にしてもらったりしたのでとっても嬉しいのですが、日本のパスポートを見せる国境で、入管の人にベトナム語を話されたときには「おい、パスポート見ろ」と思ったけどね。
彼、せんぴこ君、は見た目はどうしたって日本人ではないのだが、実は彼、背中にチャックがあり、ジジジィっと開けると中から日本人が飛び出してくるんじゃないかと思われるほど、中身が日本人。ハンバーガー、コーラ、ポテトチップスは大嫌い。白米は毎日でも大丈夫。漬物や辛子明太子なんかがあれば上機嫌。納豆、梅干しに関しては、私と取り合い。
畳と布団が好きで、ふわふわのベッドや大きいソファへの執着はない。
そして何よりも、日本の服のサイズが合う!せんぴこ君はアメリカ人としては大きくないほうなので、日本のLサイズがピッタリ。袖とか、裾とかホントあつらえたように見えることも。椅子の高さとかも合うみたいだし。
変わった二人です。
ハイコンテクストとローコンテクスト 天気:曇り一時雨
2006年9月27日 異文化アメリカの学者である、エドワード・ホールが唱えた考え方です。
ハイコンテクストとは、端的にいうと「場の空気を読める」とか「ツーカーの仲」というような考え方で、日本は世界でもっともハイコンテクストな社会だといわれています。
ローコンテクストとは、言葉で伝えたことが全てであり、感情や考えを論理的に伝えないと伝わらない社会で、欧米、特にスイスドイツ語はローコンテクストだといわれています。
どちらも一長一短だと思いますが、ビジネス社会では日本でもだんだんローコンテクストになっているようです。
個人的には、「嫌です」という意味を伝えるために、不機嫌そうな声色で「え?」と言うだけで分かってもらえるほうが楽だなぁ。ローコンテクストの人とのコミュニケーションの場合、「それは○○という理由から私は嫌です」とか言わなきゃならないんだよ。更に質問されたりもするだろうし。嫌なんだからその話もしたくないのにっ、と思ってても言わなきゃならないなんて拷問だ。
ちなみにせんぴこ君はバリバリのローコンテクスト人。
ハイコンテクストとは、端的にいうと「場の空気を読める」とか「ツーカーの仲」というような考え方で、日本は世界でもっともハイコンテクストな社会だといわれています。
ローコンテクストとは、言葉で伝えたことが全てであり、感情や考えを論理的に伝えないと伝わらない社会で、欧米、特にスイスドイツ語はローコンテクストだといわれています。
どちらも一長一短だと思いますが、ビジネス社会では日本でもだんだんローコンテクストになっているようです。
個人的には、「嫌です」という意味を伝えるために、不機嫌そうな声色で「え?」と言うだけで分かってもらえるほうが楽だなぁ。ローコンテクストの人とのコミュニケーションの場合、「それは○○という理由から私は嫌です」とか言わなきゃならないんだよ。更に質問されたりもするだろうし。嫌なんだからその話もしたくないのにっ、と思ってても言わなきゃならないなんて拷問だ。
ちなみにせんぴこ君はバリバリのローコンテクスト人。